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清見寺 略由緒



清見寺略由緒

 清見寺は昔、東北の蝦夷に備えて、此の地に関所が設けられ清見関と呼ばれていました。其の傍に仏堂が建立せられ関所の鎮護とせられました。此の仏堂を以って当寺の始めと伝えています。
 鎌倉時代の中頃、関聖上人が当寺を再興し、京の東福寺開山の聖一国師を請して、諸堂の落成式を挙げたのであります。時に弘長二年の秋でした。
 再興せられた当寺は、始め清見関寺と称し、足利尊氏深く当寺を崇敬し、康永二年には当寺を推して日本十刹の七位に列せしめ、又山上に利生塔を建立して、戦歿者の霊を慰め、又経巻を納めて天下太平を祈りました。現に尊氏の木像と、自ら画きし地蔵尊を蔵して、その一端を物語っています。
 足利室町時代に駿河を領せし今川氏は、足利氏と祖を同じくせし関係によか常に当寺を外讃し、奎四年将軍足利義教、富士遊覧に駿河に下向せし時、今川氏これを迎えて、当寺に来りて清遊し和歌などを詠じました。
此の時代、画僧雪舟及び俳人宗長など来遊し、雪舟の如きは山上の庵室に逗留し画想を練ったと云います。
 寺の附近の地勢は、山、海に迫り、自然に要害をなすを以って、古来より戦乱の場合には争奪の巷と化すること多々ありました.永禄十一年武田氏駿河乱入の際、又天正十年徳川家康甲州攻め入りの時など、何れも当寺に軍を拠らしめましたので、甚大なる戦禍を蒙ったのであります.又豊臣秀吉も天正十八年北条氏攻伐の際、当寺に一時本営を置いて全軍の指揮を執り、又梵鐘を徴用し陣用に供したのであります。
 徳川時代二百五十余年、当寺は二百余石の朱印地を有し徳川一門の帰依を受けていました。伽藍修理に当って徳川幕府は、木材、黄金を寄進し且つ奉行を遣わしてその工を督さしめました。又此の時代、修交の為来朝せし朝鮮及琉球の使節が当寺に参詣して、風景を賞し、住持と詩喝0唱酬をなすを例としました。現に大方丈の壁間に掲ぐる詩文は、其の当時のものであります。
 明治維新の変革に際し、寺門も又其の影響をまぬがれざりしが、幸ひ其の経営よろしきを得て頽廃を免れ、明治二年と、同十一年には明治天皇の鳳れんを迎え、又大正天皇東宮にありし時代、しばしば御成りあり、時には滞泊せらるゝこともありました。
 其の後大正、昭和と時代は遷り、法燈茲に一千年、今や巨鼇山上大小の殿閣毅然として襲え、海を隔て、三保の青松と相対し、右に国際港清水の近代化を眺め左に遠く伊豆の連山を望む。眼を後に転ずれば巨鼇の翠嵐うっそうとして清水湾に臨んで常時不断に梵音を伝えています。

パンフレット 「東海名区 巨鼇山 清見寺 略記」 より引用




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