第23回 田中城下屋敷跡
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田中城下屋敷跡


                                                                    説明文はパンフレットからの引用です





外より見た全景  左:本丸櫓 右:冠木門  2枚合成







■田中城本丸櫓
  この櫓は、もと田中城の本丸にあり、高さ9尺(約2.7m)の石垣の上に建っていたといわれます。本丸の南東隅の石垣上に「御 亭」(お ちん)と呼ばれる2階建の建物のあったことが記録にみえ、これに該当するもののようです。
  明治維新によって、田中城には高橋伊勢守(泥舟)が入りました。村山氏はその配下にあり、しかも泥舟の4男を養子とした関係で、明治3年この櫓の払い下げを受け、移築して住居としました。また、泥舟はこの建物を「光風露月楼」(こけらぶき・こうふうせいげつろう)と名付け扁額を掲げています。屋根はもと柿葺であったようです。
  田中城内より移築した建造物のなかで、昔から最も著名な建物です。









■仲間部屋・厩 (ちゅうげんべや・うまや)
  古くから、大洲村の大塚家にある長屋門は田中城内より移されたといわれてぎましたが、 調
査の結果、長屋門に付設された納屋がそれだと分かりました。
  仲間部屋と厩とを1棟に仕立てた建物で、手前右側の鬼瓦には、城主・本多家の家紋(立葵紋)が刻まれていました。また、解体にあたって、「安政六年」(1859年)と書かれた板材が見出されており、建築年代もその頃と推定されます。









■長楽寺村郷蔵 (ちょうらくじむら こきうぐら)
  郷蔵とは、年貢米や飢饉に備えた非常(救済貸付)米を保存するための蔵で、江戸時代には村ことに置かれていました。 村役人が管理しており、夜間は畳敷の小部屋に2人1組で泊まりこみ、夜番をしました。
  長楽寺村の郷蔵は、明治10年頃に中西家に払い下げられました。この時、郷蔵の半分を切りとり移築したものといわれ、本来は現状の倍の大きさであったとみられます。
  長楽寺村郷蔵は、市内に現存する唯一の郷蔵であり、貴重な建築物です。また、建替した時の年月と村役人(庄屋)の名が柱に書き付けられています。
  「天保十四卯歳九月建替 長楽寺村 庄屋 恵助
  (1843年)           同断      八郎右衛門」 








■茶室
 この茶室は、明治38年頃、千歳の村松家にあったものを上伝馬の奥野氏が譲り受け、屋敷内に移築したといわれています。もとは田中藩家老
の茶室であったと伝えられていますが、下屋敷の庭内にあった「茶室」とみられます。
 建物はきゃしゃな造りの数寄屋建築で、西側の四畳半の間が茶室、東側には給仕口のついた六畳の待合が接続しています。









建物越しに見える本丸櫓









土塁跡









庭園







    





















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