第16回 原宿 〜 吉原宿-2
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2008-02-29
● 第16回 原宿 〜 吉原宿

【後 半】


行程 約13km  私の万歩計 --,---歩

一里塚(江戸から32番目) 〜 高札場 〜 本陣跡 〜 立円寺 〜 増田平四郎翁碑(浮島沼の干拓者)・一里塚(江戸から33星目) 〜 妙法寺 〜 左富士神社 〜 平家越碑(富士川の合戦にまつわる) 〜 襖の塞神(村の道祖神) 〜 鶴芝の碑 〜

【後 半】
 〜 本陣跡 〜 立円寺 〜 増田平四郎翁碑四郎翁碑(浮島沼の干拓者)・一里塚(江戸から33番目) 〜 妙法寺 〜 左富士神社 〜 平家越碑(富士川の合戦にまつわる) 〜 襖の塞神(村の道祖神) 〜 鶴芝の碑 〜








柏屋本陣跡

 原宿柏原の立場の名物は、浮島ヶ原の浮島沼で獲れる鰻でした。
 柏屋は茶屋を営みながら本陣でもありました。その子孫が旧本陣屋敷地でビジネス旅館を営んでいます。

















進行右手に見える低地一帯が浮島ヶ原といわれていました







立円寺


 

本堂




望嶽の碑

 1808(文化5)年、尾張藩の侍医だった柴田景浩は江戸へ向かう旅の途中に立円寺に滞在しました。その間にこの地から見た富士山の景色に感動して碑を建てました。




柏原尋常小学校の跡碑


 

ゲラティスック号遭難誌碑と慰霊の碑

 1979(昭和54)年10月、清水港から救援米を運搬中、台風20号に遭遇し柏原沖で沈没、2名の乗組員が死亡したインドネシア船の慰霊に建立されました。






増田平四郎の像と一里塚跡




昭和放水路に架かる広沼橋
  

増田平四郎翁碑

 原宿の増田平四郎は、度重なる水害から村を救うため浮島ガ原の浮島沼の大干拓を計画しました。1869(明治2)年に「スイホシ」と呼ばれる大水路を完成させた.しかしその年の洪水に見舞われ、崩壊してしまいました。
 その後も干拓事業は形を変えて行われ、現在の昭和放水路は、ほぼその当時の位置に建設されています。





一級河川 昭和放水路



旧東海道一里塚

 江戸日本橋から33番目の一里塚です。
 一般には「沼田新田の一里塚」といわれています。
 東海道を横切る放水路橋(広沼橋)の西側に一里山と称す地名がありますので江戸時代にはこの地に一里塚があったと想像されます。

 







  







  

忘れられたように立つ道標









旧東海道は、この先のY字路を左折します















  







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元吉原付近。製紙工場の煙突が・・・







昆沙門天妙法寺

 1627(寛永4)年の創建で、日蓮宗の寺です。
 地元の人からは「毘沙門さん」と親しまれています。昆沙門堂に安置されている本尊の毘沙門天像は等身大の立派な木像です。一説には聖徳太子の作ともいわれています。この毘沙門天像は徳川綱吉が奉納したもので国宝級の貴重なものといわれています。







本堂




西洋風の毘沙門堂

  

七福神を祀る洞窟
 塔屋を入ると170メートルの地下洞窟になっていて七福神を祀ってあります。この洞窟を巡ると一度のお参りで七つの福が授かるとか・・・。





大きな足型石







    







    



       







左富士








左富士神社

 左富士神社の創建は1796(寛政8)で、もともとの社名は古くは、「悪王子社」でした。のちに「悪王子神社」と称していましたが、1908(明治41〉年に現在の「左富士神社」と改めました。
 この神社は霊験高く祈願成就するといわれています。地元の人々の話では幾多の戦争勃発時には出征兵士の武運長久を祈願する人々が絶えなかったといわれます。また、先の戦争では地元からの出征兵士は50人位いたそうですが、戦死した兵士は数人だったそうです。
 東海道を江戸から京に上るときは、富士山はいつも進行右側に見えます。この地では街道が逆行するような形になっているために左側に見えますので、「左富士」といわれています。とても珍しいために街道の名勝となっています。この地以外では茅ヶ崎にある「南湖の左富士」があります。






神社前にある歴史を伝える酒店





いよいよ左富士が・・・



 

左富士記念碑





「左富士」の碑
















平家越碑

この辺り一帯は1180(治承4)年、富士川の戦いで平家軍が陣を構えたところです。源氏の迂回作戦で飛び立った水鳥の音に平家軍は驚き、浮き足立ち、敗走したといわれています。この故事に因み、和田川の辺に1924(大正13)年に平家越の碑が建てられました。











平家越の碑





平家越記念碑





道標















 

岳南鉄道・吉原本町駅















  

この辺りは吉原宿の中心でした
左:京方向  右:江戸方向












歴史を伝える旅館

  

創業は天和2年、300年以上の時が流れる・・・





 店内には諸大名が宿泊時に玄関に掲げた木製の名札がずらり並んでいて圧巻でした。







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道路拡幅で分断された旧東海道
写真  左:京方向(中央が旧東海道)  右:江戸方向(右側が旧東海道)



 

右:本市場から望む富士山







 

潤井川(右)と架かる富安橋(左)







袂の塞神

 塞神は集落を守るため村に通じる道の入口に祀られる道祖神です。江戸後期のものといわれ、笏を持つ立派な道祖神です。像は高さがおよそ88センチメートル、幅がおよそ70センチメートルです。
















 

「旧東海道 間宿 本市場」の碑







 

鶴芝の碑
 この碑は、文政3年(1820)6月、東海道間の宿(旅人の休けい所)本市場の鶴の茶屋に建てられたもので、当時ここから雪の富士を眺めると、中腹に一羽の鶴が舞っているように見えたので、この奇観に、京都の画家盧洲が鶴をかき、これに江戸の学者亀田鵬斉が詩文を添え、碑とした。
 市内では旧東海道をしのぶ数少ない貴重な文化財である。
(説明板より引用)






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