行程 約10q 鶴芝の碑…札の辻跡(高札場跡)…雁堤…渡船「上り場」常夜燈…岩淵の一里塚(江戸から37里目。塚はほぼ往時のまま)…蒲原一里塚(江戸から38里目〉…蒲原東木戸…脇本陣跡澗屋場跡…本陣跡…蒲原西木戸 【前 半】 …岩淵の一里塚(江戸から37里目。塚はほぼ往時のまま)…蒲原一里塚(江戸から38里目〉…蒲原東木戸…脇本陣跡澗屋場跡…本陣跡…蒲原西木戸… |
岩淵の小休本陣(こやすみほんじん) この小休本陣(常盤家)は、宿泊ができない休憩所として主に富士川の船渡しの待合所としての役目で使われていたものです。本来の本陣や脇本陣とは異なったものです。 建物は、1854(安政3)年の「安政の大地震」のあとに建築されたものです。常盤家の住宅の主屋として使われていました。蒲原町が4年間にわたる修復工事を行い2004(平成16年)年に一般公開されました。現在は国登録有形文化財に指定されています。この小休本陣の常盤家は、女優常盤貴子さんの父親の実家だそうです。 |
臨済宗光福山新豊院 新豊院の山門は、本柱を門の中心からずらして屋根をのせる、薬医門形式といわれるものです。 |
岩淵の一里塚 江戸日本橋から37里目の一里塚です。 左側の塚はほぼ往時のままの姿を留めた塚として残っています。右側には榎の巨木がそびえ立っています。この榎は江戸時代後期に植えたものといわれています。 |
この辺りの地形は河岸段丘となっています。この河岸段丘の上に旧東海道があるため、右に左に曲がりながら造られています。この岩淵の一里塚でも旧東海道は右へ大きく折れ曲がっています |
東海道新幹線の下に階段になった人道用のトンネルが作られ、ここを潜り抜けて行きます |
◆「源義経硯水」と浄瑠璃姫 旧道からちょっと離れたところにあります。 1174(承安4)年、源義経が奥州へ下る途中に蒲原木之内神社に稲荷大神を勧請した際に神文棟札を認めるためこの地の湧水を汲んで硯の水に使ったという話と源義経が奥州へ下る途中に三河矢矧(みかわやはぎ)の長者の娘、浄瑠璃姫と契りを交わし、手紙を書くために硯の水にこの地の湧水を使ったという話があります。 一方、三河矢矧(みかわやはぎ)の長者の娘、浄瑠璃姫は義経を恋い慕い命がけで追いかけ、遙か遠国の地奥州へ向かう途中でしたが、この地の南に位置する吹上の浜にて疲れから倒れ、望み叶わず悲運の死をとげました。この地の里人たちは浄瑠璃姫を憐れみ慈しんで、懇ろに葬ったと伝えられています。 |
蒲原の一里塚跡 江戸日本橋から38里目の一里塚です。 東木戸から東へ凡そ100メートルくらいのこの辺りに一里塚が築かれ、松が植えられていました。現在は小さな赤の鳥居、赤屋根の祠が置かれ、「一里塚」の石柱が一里塚跡を示しています。 海岸よりにあった蒲原宿は1699(元禄12)年の大津波によって壊滅的な被害を受けました。一里塚も流失してしました。このため蒲原宿自体を山側の蒲原御殿があったとされる現在の地を中心にして移しました。このとき蒲原一里塚も移りこの場所に造られました。 |
◆蒲原城主、北条新三郎の墓 旧東海道を右に入り、山腹を少し登ったところに哀れ隠れ忍ぶように建っています。 北条幻庵(北条早雲の子)の跡継ぎである北条新三郎が蒲原城の城主として居住したのはわずか1年ほどでした。1569(永禄12)年、蒲原城は甲斐の武田信玄の軍勢に激しく攻め込まれ、城主、北条新三郎は自刃しました。 戦国時代末期の日本統一の流れを早めたとされる甲斐武田と小田原北条の家運をかけての蒲原合戦は武田軍の勝ち戦となりました。蒲原城の落城で駿河進出を果たした武田信玄は長年の念願であった京都上洛の体制を整えました。その矢先に信玄は病魔に倒れました。「信玄倒れる」。これが戦国の世の激変の導火線になりました。 その後の戦国の世の激動時代を思うと蒲原城の落城がその端緒となり、大袈裟にいえば天下統一の歩を早めたのではないかとも思えます。 |
蒲原宿東木戸跡 江戸時代の宿場の入口には、見附や木戸と呼ばれるものがありました。蒲原宿の入口には木戸が設置されてました。東の入り口のことを「東木戸」と呼んでいました。木戸と木戸の間のことを「木戸内」といわれていました。蒲原宿の東木戸の道は変化は少ないですが、枡形になっています。また東木戸には「常夜燈」が残されています。 常夜燈とは今日でいう街路灯の役目を果たしていました。このため各所に常夜燈を設置して暗い夜道の安全を守っていました。 |
東木戸を過ぎると古いコンクリート造りの諏訪橋を渡ります。橋の右手、河岸段丘の上から大きなパイプ4本が橋の下を通り、左手の海岸方向に設置されています。このパイプは日本軽金属蒲原工場で使われる工業用水を送る導水管です。この工場は1940(昭和15)年に稼働し、日本有数のアルミ生産量を誇っています。 |
蒲原宿の問屋・名主をつとめた「利右衛門」宅の跡です。 |
碑には保水堂版「蒲原夜之雪」の絵柄が銅板レリーフで黒石に、はめ込まれています。 |
◆本陣跡 黒の板塀に囲まれた江戸時代の本陣跡。蒲原宿には東本陣と西本陣の二つがありました。ここは東本陣跡です。 東本陣(多芸縫右衛門家)は現在の天王町旧国道南側にあり、間口は18間(36m)に及ぶ建物です、先祖の多芸氏は、1571(元亀2)年の3月5日付けの甲斐武田氏の武将、穴山信君の判物を伝えていた「蒲原衆」の一人であったといわれています。また、天明(1781-1789)年間の頃までは、当主が代々問屋職を兼ねて務めていました。蒲原宿の宿場の中心となっていた家柄のようです。 本町にある西本陣(平岡久兵衛家)は、1601(慶長6)年に蒲原宿が開設されてから、本陣がなくなる1873(明治4)年から1874(明治7)年7月まで、蒲原宿の戸長を勤め、それを最期にこの地から京都へ居を移しました。西本陣跡邸内には大名が乗った大名駕篭を下ろしたといわれている「お籠石」が残っています。 |
高札場跡 高札とは徳川幕府の禁令、定などを記した立札のことで、辻札ともいわれました。宿場や村には必ず高札場が設けられ、民衆に法令や定を周知させていました。正徳元年(1711)に出された五高札が有名で @伝馬に関する定 A忠孝を奨励する定 B毒薬や贋金銀売買禁止の定 C切支丹宗門禁制の定 D火付(放火)重罪の定 が墨書されて掲げられていました。また貨客運搬の駅馬や人足の賃金も改定のたびに掲げられました。 (説明板より引用) |
御殿道跡 かつて、このあたりに「蒲原御殿」がありました。はじめは武田氏を攻めて帰る織田信長を慰労するために徳川家康が建てた小規模なものでしたが、二代将軍秀忠、三代将軍家光が東海道を往来するたびに拡張、整備され、規模も大きくなりました。 御殿の正確な位置はわかりませんが、このあたり一帯の相当広い地域を占めていたと思われます。背後の山を「御殿山」、ここから下る道を「御殿道」と読んでいます。ちなみに、寛永十一年(1634)の家光の上洛以降、「蒲原御殿」は使用されなくなりました。 (説明板より引用) |
大正時代に建築された旧五十嵐歯科医院の洋風建物です。外観は洋風の建築ですが内部は町屋造りの建築という珍しい建物です。町が修復して保存、現在では「国登録有形文化財」に指定されています。 |
蔀戸(しとみど)のある家 国登録文化財「志田家住宅主屋」 志田家は∧六「ヤマロク」という屋号で、味噌や醤油の醸造を営む商家でした。 安政元年(1854)の大地震の直後に再建されたという東側二階建て部分は「通り土間1列型」と呼ばれる町家形式の典型です。 蔀戸とは、日光や風雨などをさえぎる戸のことです。上下二枚に分かれていて上半分を長押から吊り、下半分は懸金で柱に打った寄せにと、全部開放するときは取り外せます。昼は上に吊り上げて目隠しに用い、夜は下ろして戸締りの役を果たしました。 平成13年9月14日に、国登録有形文化財に登録されました。 (説明板より引用) |
蒲原西木戸・茄子屋の辻 蒲原宿の西め入口には木戸があり、「西木戸」と呼ばれていました。もともとの宿場は、西木戸より南側の古屋敷と呼ばれている所に広がっていましたが、1699(元禄12)年の大津波によって壊滅的な被害を受け、蒲原御殿があったとされる現在の地に移動しました。 この西木戸の近くに青木の茶屋(茄子屋)がありました。「茄子屋の辻」で乱闘が起こったといわれている1653(承応2)年、高松藩の槍の名人大久保甚太夫たちが江戸へ行く途中、薩摩藩の大名行列と出会いました。このとき槍の矛先が相手の槍と触れたことで口論となり、茄子屋で薩摩藩の大名行列と乱闘が始まり、70人近くを倒したといわれます。当時の竜雲寺住職が墓地に葬り、懇ろに供養しました。竜雲寺には大久保甚太夫の槍の矛先が、寺宝として保存されています。 |
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