第18回 蒲原宿 〜 興津宿
戻る
戻る

第18回 蒲原宿 〜 興津宿

前 半


蒲原から眼下に広がる薩った峠の興津宿  行程 約 13q

 〜 由比一里塚(江戸から39里目)〜 由比本陣公園 〜 正雪紺屋 〜 間の宿本陣跡(人馬が峠越えの前に一息入れた)〜 西倉沢一里塚(江戸から40里目/薩った峠の入口)〜 薩った峠展望台 〜 興津川渡し場跡碑 〜 興津一里塚(江戸から41里目)〜

■前 半
 〜 由比一里塚(江戸から39里目)〜








前回終着地から県道396号線を暫く歩いたところ・・・









東名高速道路の下を通りました









右が県道396号線、左が旧東海道です









間もなくして由比宿の標識がありました









長閑な町並みを感じました







由比一里塚跡
 江戸日本橋から39番目の一里塚です。
 神沢川を渡り、間もなくして民有地の駐車場の一角に「一里塚跡」の石柱がひっそりと建っていました。

■一里塚
 慶長九年(一六〇四)江戸幕府により、行旅の便をはかるため、東海道・東山道・北陸道に設けられ、一里が三十六町、一町が六十間と定められ、塚には榎や松の木が植えられた。
 由比の新町の一里塚は江戸から三十九番目で松が植えられていたが、寛文年間(一六六一〜七一)、山側の松がかれたので、良用軒清心という僧がここに十王堂を建立し、延命寺境外堂とした。十王堂は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、祀られていた閻魔像は延命寺本堂に移されている。
(説明板より引用)
   







■昔の商家
(志田氏宅)
 江戸から京へ上る旅人が、蒲原から由比へ入る時、ここは当初の由比宿の東木戸で、桝型道路の形態をとどめている。
 志田宅は家歴も古く、屋号「こめや」を名乗り、家のたたずまいも昔の商家の面影を残している。
 入口(どまぐち)を入ると帳場、箱階段等がのこっている。
(説明板より引用)








御七里役所之趾
 徳川家康の十番目の子、徳川頼宣が駿府藩から紀州藩に国替えになりました。その紀州徳川家が江戸幕府の情報などをいち早く得るために七里毎の宿場に置いた連絡組織を「御七里役所」といいました。


■御七里役所趾
江戸時代 西国の大名には江戸屋敷と領国の居城との連絡に七里飛脚という直属の通信機関を持つ者があった
此処は紀州徳川家の七里飛脚の役所跡である 同家では江戸 和歌山間−五八四キロ−に約七里−二八キロ−毎の宿場に中継ぎ役所を置き 五人一組の飛脚を配置した 主役をお七里役 飛脚をお七里衆といった
これには剣道 弁舌にすぐれたお中間が選ばれ 上り竜 下り竜の◆◆の伊達半天を着て七里飛脚の看板を持ち 腰に刀と十手を差し 御三家の威光を示しながら往来した
普通便は毎月三回 江戸は五の日 和歌山は十の日に出発 道中八日を要した 特急便は四日足らずで到着した。(以下略)         (説明板より引用)

   







   

昔の家並みが・・・









昼食場所
(桜海老の天ぷらが美味しかった)




 後 半 へ 




戻る
戻る