本日の行程 約 10キロ 私の万歩計 23,400 歩 旧東海道記念碑…長沼一里塚跡(江戸から44里目)…護国神社…西郷・山岡会見之史跡(西郷隆盛と山岡鉄舟が徳川慶喜の身柄について談判)…札の辻跡…駿府城址(家康の隠居跡)…浅間神社(徳川氏の厚い崇拝を受けた) 後編の行程 …西郷・山岡会見之史跡(西郷隆盛と山岡鉄舟が徳川慶喜の身柄について談判)…札の辻跡…駿府城址(家康の隠居跡)…浅間神社(徳川氏の厚い崇拝を受けた) |
後列右側 御定番 松平右近信之の墓 中央 御城代 安堂直之の墓 左側 御城代 安堂出雲守 藤原広栄の墓 |
■西郷隆盛と山岡鉄舟会見之史跡 1868(慶応4)年、薩摩藩の西郷隆盛らは徳川幕府勢力を平定するため駿府まで朝廷の御旗の下に軍を進めていました。その西郷隆盛のもとに徳川幕府方の山岡鉄舟が勝海舟の親書を携えて会見を求めて来ました。この会見は江戸において計画されている江戸城開城のための「勝海舟・西郷隆盛の会見」の前哨戦でした。 この会見で山岡鉄舟は西郷隆盛に徳川慶喜の身柄の扱いについて、「善処する」という約束をさせ、江戸城開城のための「勝海舟・西郷隆盛の会見」実現への道筋をつけました。 |
西郷・山岡 会見之史跡 ここは慶応四年三月九日東征軍参謀西郷隆盛と幕臣山岡鐵太郎の会見した松崎屋源兵衛宅跡でこれによって江戸が無血開城されたので明治維新史上最も重要な史跡であります 明治百年を記念して 昭和四十三年三月九日 |
静岡の由来 明治二年(一八六九)廃藩置県を前にして駿府または府中といわれていた地名の改称も藩庁で協議された 重臣の間では賎機山にちなみ賎ヶ丘といったんは決まったが藩学校頭取の向山黄村先生は時世を思い土地柄を考えて静ヶ丘即ち「静岡」がよいと提案され衆議たちまち一決同年六月二十日「駿州府中静岡と唱え替えせしめられ候」と町触れが達せられた 以来百有余年冨士を仰ぐふるさと静岡の名は内外に親しまれ県都として今日の発展を見るに至った ここに市制施行九十周年を迎え黄村先生の威徳を敬仰しゆかりの地藩庁跡に市名の由来をしるす 昭和五十四年四月一日 |
徳川家康公と駿府 今から650年ほど前の室町時代に今川範国(のりくに)が駿河国の守護に任ぜられ、以後駿河国は今川氏の領土の一つになります。 今川氏全盛期9代義元の時代に、徳川家康(幼名 松平竹千代) は人質として19歳までの12年間、駿府で生活しています。後に戦国大名、そして天下人へと成長していく過程で臨済寺の住職太原雪斎(たいげんせっさい)などから種々の教えを受けており、家康の人間形成の上で非常に重要な時期を駿府で過ごしています。 戦国争乱の中、永禄ll年(1568)10代氏真(うじざね)は甲斐の武田信玄に攻められて掛川に落ち、駿府の町は焼き払われます。さらに、天正10年(1582)には徳川家康が駿府の武田勢を攻め、再び戦火に遭った中世駿府の町は、ほぼ壊滅状態になりました。 (東御門巽櫓パンフより引用) |
ご由緒 神部 (かんべ) 神社・浅間 (あさま) 神社 (以上二社同殿) 及び大歳御祖 (おおとしみおや) 神社の三社を総称して、静岡浅間神社 (通称おせんげんさま) と申し上げ、何れもご創立は千古の昔にさかのぼり、駿河国総社として広く信仰されている。 三社とも鎌倉時代以降、歴代幕府の崇敬を受け、特に江戸時代には徳川氏のあつい尊崇を受けて、寛永・文化年間両度の大造営が行われた。ことに文化元年 (一八〇四年) から六十年余の歳月と、当時の金額で十万両の巨費を投じて建築されたのが現在の社殿群である。 境内は四万五千平方メートル。宏壮華麗な社殿群は、いずれも漆塗りの極彩色で、特に楼閣造りの大拝殿は浅間造りの代表的なもので高さ二十五メートルあり、殿内は一三二畳敷きの広さがある。 昭和四十六年六月社殿二十四棟が、平成十一年二月、宝蔵・神厩舎が国の重要文化財に指定された。まさに"東海の日光"と呼ばれるにふさわしいたたずまいである。また、当社は海外雄飛で有名な山田長政公の産土 (うぶすな) 神としても知られている。 (参拝の栞より引用) |
六世紀頃(千五百年前)の築造とされ、円墳でその規模は大きく、県下随一の家形石棺を有し、出土品の豊富華麗なことは東海地方に類を見ない。 出土した装身具・武具・馬具・祭祀遺品等多数を、浅間神社の宝物とともに境内の文化財資料館に展示している。 (参拝の栞より引用) |
| |||||||
| |||||||