行程 11q 歩数 約 14.300歩 府中宿札の辻(東海道スタート)…府中一里塚跡(日本橋から45里目)…由比正雪公之墓吐…石部屋(安倍川餅の老舗)…安倍川義夫の碑…丸子一里塚跡(日本橋から46里目)…丸子宿本陣跡…丁子屋(名物とろろ汁の昼食)…十返舎一九の碑(東海道中膝栗毛)…細川幽斎歌碑…丸子橋…誓願寺 前編 府中宿札の辻(東海道スタート)…府中一里塚跡(日本橋から45里目)…由比正雪公之墓吐…石部屋(安倍川餅の老舗)…安倍川義夫の碑… |
今は東海の名園、静岡一といわれる料亭「浮月楼」となっています。 |
西郷の局は、二十七歳で家康に仕え、翌天正七年(一五七九年)四月、家康の第三子秀忠を生んだ。家康三十七歳のときである。 このころ、家康にとっては、浜松城にあって、三方原の合戦、設楽原合戦、小牧長久手の合戦と、戦争に明け暮れた最も苦難な時代であった。西郷の局は、家康の浜松城時代に仕え、苦しい浜松城の台所を仕切った文字どおり糟糠の妻であったということができる。 天正十四年十二月、西郷の局は、長かった苦難の浜松時代を終え、名実共に東海一の実力者となった家康と共に駿府入りをした。家康の陰の立て役者として、献身的に仕えた西郷の局は、駿府入りとともに浜松時代の疲れが出て、天正十七年五月、三十八歳の短い障害を終った。 後年、将軍職についた秀忠は、母のために盛大な法要を営み、その霊をなぐさめた。以来、徳川三百年の間、この宝台院は、徳川家の厚い保護を受けたのである。 (説明板より引用) |
■札の辻跡 府中宿の中心部の駿府城大手門正面の町口だった所には、1874(明治7)年まで高札場が置かれていました。ぞくに札之辻と呼ばれていました。高札場のあった場所の近くには「里程元標」が、それよりやや西の歩道には「札之辻址」と刻まれた真新しい標柱が建っています。 |
■府中一里塚跡 江戸日本橋から45番目の一里塚です。 この府中一里塚跡は市街に通じる「本通り」にあります。府中一里塚が設けられたころの東海道は、この「本通り」を通っていました。後に東海道は1本南に位置する「新通り」に移されました。以後この「新通り」が、東海道として機能を果たすことになりました。その結果、東海道およそ500qの中で、道沿いにない一里塚となってしまいました。 この府中一里塚跡も他の多くの一里塚と同様に往時の姿は見られません。一里塚跡を示す石柱の碑と案内板が建てられているだけです。 |
安倍川の川会所はこの弥勒交差点にある弥勒交番あたりにありました。 ■安倍川の川会所跡 江戸時代、東海道で架橋を禁じられていた川に安倍川や大井川などがある。東海道を往来する旅人は川越人夫に渡してもらわなければならなかった。 川越人夫による渡しでは、小型川越えの奥津川、中型川越えの安倍川、大型川越えの大井川などが、いずれも代表的な存在であった。この川越人夫が人や荷物を渡すのを監督する所が川会所であった。 安倍川にも両岸にから会所があった。ここには、毎日川役人が勤務して川越人夫を指示したり、川越え賃銭の取扱いをするほか、町奉行所からも川場係の同心二人が毎日出張して警備監督に当っていた。 この川会所は、間口六間、奥行四間半であり、五人位の裃を着た役人が詰めていたといわれている。 ちなみに、安倍川の川越え賃は、脇下から乳通りまでは一人六十四文、へそ上は五十五文、へそまでは四十八文、へそ下は四十六文、股までは二十八文、股下は十八文、ひざ下は十六文であったといわれている。 (説明板より引用) |
■安倍川架橋の碑 この石碑は、宮崎総五氏が社会事業のためにと、明治七年に多額の私財を投じて建設した安倍川橋の架橋の顛末を、後世の人に伝えるために、明治四十一年に建てられたものです。 (説明板より引用) |
■由井正雪公之基祉 由井正雪は、1651年(慶安4)年、徳川幕府の転覆を企てました。しかしが未遂におわり、駿府の旅籠「梅屋」で自害しました。その正雪の首は安部川の河畔に晒されされましたが、密かに持ち出し菩提樹院に運び懇ろに弔ったといわれます。ここにあった菩提樹院は、静岡市沓谷に移転されています。跡地である弥勒公園には由井正雪の墓があったことを示す碑が建てられています。 |
■冠木門 (かぶきもん) この冠木門は、静岡市制一一〇周年記念事業として開催された静岡「葵」博会場に建てられたものです。 東海道宿駅制度四〇〇を記念して、府中宿 西の見附に近いこの場所に移築したものです。 冠木門は、寺社や宿場の出入口、関所などに広く用いられたものです。 (説明板より引用) | ■駿府キリシタン殉教碑 1234567890123456789012345678904567890123456789012345678901234512345 |
■石部屋 (せきべや) 創業1804(文化元)年の安倍川餅の老舗です。安倍川餅は、食べごろのの大きさに丸めた餅に黄粉をまぶし、白砂糖を振りかけたものです。江戸時代には当地の名物となりました。餅が1個5文で売られていたことから「5文取り餅」とも呼ばれました。 別の説では、安倍川上流で砂金が取れたことから、安倍川河畔の餅屋の主人が機転を利かせて、黄粉をまぶした餅を「金な粉餅」として時の将軍徳川家康に献上したといわれます。徳川家康はその「金な粉餅」の美味と主人の創意工夫を称えて「安倍川餅」と名付け与えたといわれます。石部屋当主は14代目です。客から注文を受け、餅を丸める作業の仕方は往時と変わらないということです。 |
■安倍川の義夫の碑 この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。 元文三年(一七三八)初秋の頃、紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、その近くにいた人夫の一人(川原町彦右門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人のあとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前の事だ」といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。 昭和四年(一九二十九)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々によって、安倍川橋の近くのこの地に碑が建てられたのである。 碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず。 財に臨まずんば義士の志を知らず。 (説明板より引用) |
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