第21回 府中宿−丸子宿-2
戻る
戻る
トップへ
トップへ

第21回 府中宿 〜 丸子宿

〜 後 編 〜


行程 11q  歩数 約 14.300歩
 府中宿札の辻(東海道スタート)…府中一里塚跡(日本橋から45里目)…由比正雪公之墓吐…石部屋(安倍川餅の老舗)…安倍川義夫の碑…丸子一里塚跡(日本橋から46里目)…丸子宿本陣跡…丁子屋(名物とろろ汁の昼食)…十返舎一九の碑(東海道中膝栗毛)…細川幽斎歌碑…丸子橋…誓願寺

後編
丸子一里塚跡(日本橋から46里目)…丸子宿本陣跡…丁子屋(名物とろろ汁の昼食)…十返舎一九の碑(東海道中膝栗毛)…細川幽斎歌碑…丸子橋…誓願寺















丸子の地蔵堂







■さわたりの手児万葉歌碑
 地名「さわたり(佐渡)」が地図上から消えたことを惜しんで、この碑を建つ。「さわたり」は、わが国最古の歌集『万葉集』巻十四 東歌 にうたわれた地名であって、この歌は東国農民の愛唱歌謡の一つであった。当地方一帯は、古くから「さわたり」の地名で呼ばれてきていた。
(建立趣旨文より引用)
























■丸子一里塚跡
 江戸・日本橋から46里目の一里塚です。
 地元の住民から「一里山」と親しく呼ばれていたようです。現在では一里塚の姿は跡形もなく失われています。道路の白線の建物側に石柱碑が残されているだけとなっています。その石柱には「一りづかあと」と刻まれています。
 













  
■丸子宿本陣跡
 本陣職は横田家の当主、横田三左衛門が世襲で務めていました。本陣が出来た当初は本陣の名称が付いていなかったといわれています。元禄年間 (1688〜1704)に入ってから徳川幕府道中奉行の久貝正方から本陣の名称をを授かっています。なお、横田家は本陣の傍ら脇本陣も営んでいました。
 明治天皇は、1868(明治元)年2月と翌1868(明治2)年3月の2回の行幸をしたおりに本陣を小休所として使われました。
 現在では当時の建物などは何も残っていません。「史跡 丸子宿本陣跡」の真新しい石柱碑が建てられているだけです。



 → 

左:「明治天皇小休所趾」の碑   右:「お七里役所」跡の碑







■辰石
 徳川家康は駿府城築城にあたり、その石垣は丸子など近在より集めたと伝えられる。
この石もその一つで、丸子舟川より運びだされたが、三百七十余年目前の旧東海道の下で眠っていたものを、丙辰 (一九七六)正月、電話ケーブル埋設事業の際、掘り出されたもので辰年にちなみ龍が爪あと (くさび割りあと)を残して天に昇った、
丸子の縁起ものとして辰石と名付けました。         丁字屋 主
(説明板より引用)



■丁子屋
 創業1596(慶長元)年のとろろ屋の老舗です。この店は安藤広重の「東海道五拾三次之内函」丸子に描かれているほど当時から有名でした。当時の旅人は宇津ノ谷峠を越える前に、丸子でとろろを食べ英気を養ったといわれます。そのことを示すように松尾芭蕉は「うめ若菜 丸子の宿のとろろ汁」の一句を残しています。このように「とろろ」は丸子の名産として知られ、そのとろろを使った「とろろ汁」は名物として旅人に人気がありました。
 最盛期には多くのとろろ屋があり軒を連ねていたといわれます。幕末から明治になり鉄道の東海道線が開通したため一気に衰退しました。ある時期はとろろ屋は丁子屋の一軒だけになったこともありました。観光ブームで賑わい始めたことなどで、今では数軒のとろろ屋ができています。
 現在の丁子屋の建物は、昭和46年に近在の萱葺き屋根の古民家を解体移築したものです。往時の面影を漂わせる造りとなっています。




  

左:店先に吊された提灯       右:松尾芭蕉の句碑   



■十返舎一九の碑
十返舎一九が著した滑稽な旅物語、『東海道中膝栗毛』の中で、主人公の弥次さん喜多さんが詠んだ「けんくわ(喧嘩)する夫婦は口をとがらして鳶とろろにすべりこそすれ」の狂歌を刻んだ歌碑です。
 作品の中では、弥次さん喜多さんが丸子名物のとろろ汁を食べようと1軒の茶屋に入って注文したまではよかったのですが、そのうちに茶店の夫婦が喧嘩を始めてしまいます。怒り狂った女房が亭主にとろろの入ったすり鉢を投げつけたため、一面とろろまみれになって滑って転ぶ大騒ぎになりました。弥次さん喜多さんは、楽しみにしていた丸子のとろろを食べそこなっています。このときの情景を詠んだものです。







丁子屋前の風景  左方向・江戸側、丸子橋方向・京都側   5枚合成



 ■丸子橋 (まりこばし)
 丸子川に架けられた橋で、
丁子屋前から宇津ノ谷峠方
面へと続いている。橋を渡っ
た先には丸子宿の高札場が
あり、当時の様子に復元され
ている。
 左 丸子橋 宇津ノ谷峠方向
 右 丸子川 上流方向







■細川幽斎
            天正3年(1534)〜慶長15年(1610)
 安土桃山時代の文武両道に卓越した大名歌人で、近世和歌の祖とも称えられ「古今伝授」を授けられた。関ヶ原の合戦の直前居城が石田三成の攻略により落城の危機に際し後陽成天皇は「古今伝授の隠滅」を憂いて勅命にて幽斎を救出した。
 信長・秀吉・家康にも重臣として処遇され丹後田辺城主となった。三代忠利が熊本城主となり明治維新を迎えて現在17代護貞公に至っている。
 天正18年(1590)3月8日秀吉の小田原征伐の先陣としてうつの山路を越え「まりこ川と人のいふをおって」と詠んだ歌で、この日丸子川を渡って駿府に入った。          (説明板より引用)



  



  






  天柱山 吐月峰柴屋寺由来記
     天柱山 吐月峰柴屋寺 (てんちゅうざん とげっぽうさいおくじ)
 静岡市駿河区丸子泉ヶ谷にある柴屋寺は室町時代の中期永正元年(]五〇四年)連歌師柴屋軒宗長が草庵を結んで閑居した所であって吐月峰の名によって天下に知られた名勝であります。
 この泉ヶ谷の地は磨仁戦乱の頃持舟、宇津山、賤機山などと共に駿府の外城として丸子城があり今川氏親は今川氏の内訌の難をこの丸子城にさけて十余年を過したのであります。
 現在の柴屋寺は当時の丸子城内の一部であり、青年連歌師宗長は氏親ともに暫くこの城内にあって自然の風詠に戦塵を忘れたと伝えられています。
 氏親は駿府城に帰って(長享元年・一四八七年)国守となった後も屡々柴屋軒をたずね、なお公財を捨てヽ堂宇を建て始めて柴屋寺と称えたのであります。徳川家康はこの寺に朱印地を賜い堂宇の朽ちるを惜んで懇ろに修覆したのであります。
 その庭園は宗長が自から禅味と詩魂を打ちこんで築いたものといわれ、本堂の西に小池を造り東北方から湧出する岩清水を引いてこれに注ぎ池畔には樹石を配して西方にそびえる天柱山を巧に取入れた借景庭園であります。
 風雅な庭園は国の名勝と史跡に指定され当時の面影を止めて昔から月の名所。竹の寺として竹細工は吐月峰と書いて「はいふき」と読まれるほど名高く親しまれている。                                     (説明板より引用)




  


















■誓願寺
 誓願寺は、建久年間 (一一九〇〜九九年)に源頼朝の両親追善のため建立されたが、天文年間 (一五三二〜五五年)の丸子城の戦火で類焼した。しかし、永禄十一年 (一五六八年)駿府へ進出した武田信玄がこれを惜しんで再建したものである。
 この寺はまた、大坂冬の陣を起こしたいきさつの舞台となったところである。慶長十九年 (一六十四年)、豊臣家の重臣で、賤ヶ岳七本槍の勇士でもあった片桐且元は、京都方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字について、駿府城の徳川家康に申し開きのため、この寺に滞在していた。有名な方広寺大仏鐘銘事件である。しかし、家康には且元の意がくまれず、遂に大坂冬の陣を起こし、続いて翌元和元年(一六十五年)五月の大坂夏の陣で、豊臣家は亡びてしまうのである。
 境内には、子孫の片桐石見守貞昌によって建てられた且元夫妻の墓が、二基仲良く並んでいる。また、本堂右側にある古池には、珍しい産卵法で知られる「モリアオガエル」が棲息しており、五月から六月にかけて、その産卵風景を見ることができる。              (説明板より引用)









■片桐且元公の墓
 方広寺大仏鐘銘事件弁明のため誓願寺に滞在した豊臣家重臣片桐且元の墓で夫妻で葬られています。子孫の片桐石見守貞昌によって夫妻の二基の墓石が並ぶ墓が建立されています。



  









戻る
戻る
トップへ
トップへ