第23回 岡部宿〜藤枝宿-2
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第23回岡部宿 〜 藤枝宿


後 編


行程 約13km  私の万歩計 12,500歩

松並木(きょうのスタート地点)〜鬼島一里塚跡(江戸から49里目)〜藤枝宿東木戸跡〜田中城跡・田中城下屋敷=寿し宏(昼食)=白子町由来記の碑〜蓮生寺〜大慶寺(久遠の松)〜正定寺(本願の松)〜志太一里塚跡(江戸から50里目)〜松並木〜六地蔵〜古東海道追分〜千貫堤〜

後編の行程
〜白子町由来記の碑〜蓮生寺〜大慶寺(久遠の松)〜正定寺(本願の松)〜志太一里塚跡(江戸から50里目)〜松並木〜六地蔵〜古東海道追分〜千貫堤〜















往時の位置、様子を伝える歩道のタイル







  

■■白子由来記碑
  本能寺の変の折、徳川家康の危機を救った小川孫三は伊勢国白子(今の三重県鈴鹿市白子)の出身で、1585(天正14)年、幕府よりこの地を賜り、白子町と名づけました。幕府からは諸税が免除されたということです。
  経緯をしるした碑で、子孫が営んでいる眼科医院の前にあります。







■蓮生寺
  源氏の武将・熊谷直実ゆかりの古刹です。熊谷直実は幼少の頃に父を失いました。そのため久下直光の養子となりました。源頼朝の挙兵の際には、当初平氏の側についていました。のちに源氏側へと移りました。
  『平家物語』の中で描かれている一ノ谷の戦いでの平敦盛との一騎打ちはあまりにも有名です。
  その後、熊谷直実は久下氏との所領争いに敗れ、法然の弟子となって出家しました。法名は「蓮生」と称しました。『平家物語』においては、若い平敦盛を討った際、殺生をすることの虚しさに気づきました。熊谷直実は平敦盛の供養のために出家したと言い伝えられていますが、実際は叔父との領地を巡る訴訟に敗れたためとも言われています。
  その後、藤枝宿に蓮生寺を建立し、本領の熊谷郷に帰った後は庵を建てて念仏三昧の生活を送ったと伝えられています。
 山門は、1811(文化8)年、田中城主本多正意によって寄進されたものです。また境内のイブキは市指定天然記念物となっています。
(当日資料参考)




  
左:山門   右:本堂



    

写真右 「熊谷入道古跡」の碑
写真左 「建久六年秋、熊谷直実入道が当地の長者宅で十念を質に入れ云々・・・」の碑。十念とは「南無阿弥陀仏」を十回唱えることをいいます。









宿の長楽寺町にあった見事な秋葉山常夜灯







■圓砂山大慶寺
  日蓮聖人京都遊学往復お立寄りの霊跡
  今を去る七百余年前、鎌倉時代建長五年初春、(一二五三年)日蓮聖人が京都比叡山へ遊学の析、往復お立寄りになって、道圓・妙圓の両夫婦を説法教化され、題目のご本尊と毘沙門天王を授興され、記念に一本の松をお手植えされました。この松は「久遠の松」と命名されました。
  道圓・妙圓の名は、聖人より授けられた法号で、後年、両夫婦は自宅に法華堂を建立して、当山の基を開きました。両夫婦の、墓碑は鎌倉時代の作で、大宝塔の下部に安置されています.圓妙山の山号は、道圓・砂團両夫婦の法号よりとり、大慶寺は、法華経流布の大慶にちなんで寺号としました。
  当山は東海道有数の日蓮聖人直接お立寄りの霊跡であります。現在の本堂は、間口、奥行十間(十八メートル)四面で昭和二年完成したものです。                               (パンフレットより引用)
  

左:山門   右:本堂(祖師堂)



久遠の松
  日本名松一〇〇選の一つ

 日蓮聖人お手植の松で樹齢七五〇余年の黒松、樹勢旺盛で枝振りが四方に張り出て誠に見事です。松としては最高の年齢で全国まれにみる大木で天然記念物に指定されています。高さ十四間(二十六m)、根元周囲廿三尺(七m)です。
  昭和五十八年、「日本名松一〇〇選」に選出されました。

(パンフレットより引用)



  

左:鐘楼   右:久遠の松の左の石塔は道円・妙円の墓碑。











    

往時の位置と様子を伝える歩道のタイル







■正定寺
  山門を潜って目に入るのが、右手にある見事な黒松です。
  時の田中藩主土岐丹後守が寄進した黒松で「本願の松」といわれています。


山門





本堂



「本願の松」碑

  江戸時代の享保十五年(千七百
三十年)に田中城主土岐丹後守頼
稔が植えたと伝えられている
  丹後守は境内の弁天堂に祭られ
ている弁財天の信仰が篤く 大阪城
代に登用されるに当り報恩謝徳のた
めに植えたといわれ 別名を延命の
松という
  弁天堂は老朽のため明治十五年
に解体され 昭和四十七年に再建
された
目   通  三米
樹   高  六米三十
枝張東西  十一米五十
   南北  十四米

 (碑文より引用)











人懐こい表情のお地蔵さま







■瀬戸川に架かる勝草橋
  





上流を望む







■志太一里塚跡
江戸日本橋から50里目の一里塚です。
 往時はこの位置より瀬戸川側に近いところにあったようです。

◆志太一里塚蹟
 奈良時代、官道の四里毎に駅を置く制度があり、中央からの里程を知るようになっていた。
 主要街道の一里毎に里程標を置くようになったのは、織田信長の時代に始まるという。
 徳川家康は子秀忠に日本橋を起点に東海道に一里塚を築かせた。
 志太一里塚は江戸から約二〇〇qで五〇里目に当り、瀬戸川堤から西へ約五〇M・岡野歯科医院の裏と、熊切商店の前の街道の両側にあった。
 藤枝市内では志太の他、鬼島と上青島に一里塚があり、上青島には近年まで塚蹟が残っていた。                (◆の項、説明版より引用)





  








■為善館について
明治六年五月、志太村家地太(かじた)六十七、六十八番地に為善館が創設された。この学舎は、明治四十三年の、瀬戸川大水害のため流出して確認が困難であるが、現記念碑の建っているあたりと推定される。
これは、寺子屋の学校化したようなもので、創設に連合した、志太村、南新屋村、水上村、稲川村、瀬古村が学区となり、校則も制定されていた。明治十九年、統合で前島学校志太分教室となったが、その頃の就学児童数は、約百二十名ぐらいと、当時の文書により推定できる。
明治二十三年青島尋常小学校創立に伴い発展的に閉館した。
(説明板より引用)



































■田中藩領傍示石蹟、
 瀬戸新屋村は田中藩領と掛川藩領が入り組む特異な村で、藩境に境界を示す榜示石を立てた。
  この榜示石は一丈余(約三M)の石柱で、「従是東田中領」と書かれていた。
  これと対になるのが市内鬼島の「従是西田中領」で、美濃国岩村藩領横内村との境界の法の川の所に立てられていたが、今は西益津中学校に移されている。
  膀示石は、田中城主本多正意が家臣の書家、藪崎彦八郎に命じて書かせたもので、その書の見事さは旅の文人を驚かせたという。
  上青島にも榜示石があった。                (説明板より引用)
  















■鐙池堂六地蔵尊
 観音堂のほかに敷地内には一つの石に四体または六対の地蔵が刻まれた珍しい六地蔵の石像が建立されています

◆史跡 鐙ヶ渕 (あぶみ が ふち) と観音堂
一、此処の広場は元葉梨川の渕でその形バ馬具の鐙に似ていたので古来より鐙ヶ渕と呼称されていた。。
一、崖工の観音堂ば通称山之堂と言われ入々に親しまれて来た。御本尊は、蛇柳如意輪観世音菩薩と言いお腹篭りという珍しい尊像で胎内仏は,平安時代中期の名僧で恵心僧都の御作と伝えられる。昔から子宝、安産等に霊験あり婦人の参詣者が絶えなかったという。
一、昔、渕のかたわらに柳の大木が有りその木に触れたものは浄土往生の志を覚え渕に身を投げたという。人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかった。後に聖僧により切り取られ一体の観音像として鐙堂の御本尊となる。(鐙堂略縁起より)
一、伝説に依れば徳川家康は戦勝祈願の為 愛用の鐙を渕に沈めたという。(鐙堂略縁起より)
一、弥次喜多道中で有名な十辺舎一九は東海道中膝栗毛三編の中で鐙ヶ渕の歌を詠んでいる。
   ここもとは鞍のあぶみが渕なれば
    踏んまたがりて通られもせず              (説明板より引用)





  









この先、「古東海道蹟」、「東海道追分」へと続きます








■古東海道蹟
 昭和三十年代までは、ここから西に瀬戸山の丘が続いていた。
 この碑の所から細い道が瀬戸山の上を通って、山を下りると内瀬戸の部落へ通じていた。
 この道が中世からの瀬戸の山越えと呼ばれた古東海道である。
 松並木の東海道ができた頃も、大井川の洪水が山裾に寄せたときは、旅人は丘の上の道を通った。
 古代は東海道が初倉から小川、更に初倉から前島へ通っていた。
 島田から志太の山沿いに藤枝への道を通るようになったのは、鎌倉幕府を開いた翌年、源頼朝上洛の帰路が初めてであるといわれる。
(説明板より引用)







  
■東海道 追分
  この辺りは池や湿地が多くありました。このため中世の古東海道はこの辺りを避けて南方に迂回することになりました。湿地帯の開拓が進み、新しい東海道と古い東海道の分岐点だったこの地を追分といいます。
  古東海道には多くの庚申塚や地蔵が存在し祀られていました。今でも古東海道の往時を偲ぶ風景が残されています。

















  この先、屋根の白い帯看板の建物の辺りにに「瀬戸の染飯版木」、「千貫堤」があります







■瀬戸の染飯版木



  「名物瀬戸御強飯」の版木を伝える案内木柱が立っています。
  往時の藤枝宿青島の街道名物として「瀬戸の染飯」が有名で、「東海道名所図会」に載るほどでした。強飯をクチナシ(山梔子)の汁で染めて摺り潰してから小判形に薄く延ばして干し乾かしたものです。ここはその発祥の店があったところです。
  漢方ではクチナシは疲労回復に効くといわれ、当時の旅人にとっては携帯食として用いられていたようです。

















■ 千 貫 堤
  寛永十二(一六三五)年田中城主となった水野藍物忠善は領内を大井川の洪水から守るため、ここ下青島の無縁寺の山裾から南方藤五郎山(今はない)をはさみ本宮山(正泉寺裏山)まで約三百六十米にわたり、高さ三・六米、巾二十九米の大堤防を一千貫もの労銀を投じて造築したのでこの名がある。                           (説明板より引用)
  

今回はここで上がりとなりました









少し戻ったこのところでバスに乗り帰路につきました





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