行程 約13km 私の万歩計 12,500歩 松並木(きょうのスタート地点)〜鬼島一里塚跡(江戸から47里目)〜藤枝宿東木戸跡〜田中城跡・田中城下屋敷=寿し宏(昼食)=白子町由来記の碑〜蓮生寺〜大慶寺(久遠の松)〜正定寺(本願の松)〜志太一里塚跡(江戸から50里目)〜松並木〜六地蔵〜古東海道追分〜千貫堤〜 前編の行程 松並木(きょうのスタート地点)〜鬼島一里塚跡(江戸から49里目)〜藤枝宿東木戸跡〜田中城跡・田中城下屋敷=寿し宏(昼食) |
■東海道松並木 江戸幕府が東海道整備のため植えた松並木が岡部宿にも僅かですが現存しています。道路拡幅工事が行われたことで南東側の松並木は伐採されてなくなりました。今では道路の北西側歩道上におよそ500メートルほどが往時の面影を残しています。 松並木の両端には「東海道岡部宿の松並木」の大きな案内木柱が立っています。 |
■岩村藩嶺傍示杭 「従是西巌村嶺 横内」(是従り西岩村嶺) この杭は、江戸時代享保二十年(一七三五)より明治維新までの一三五年間横内村が岩村藩領であったことを標示した杭を復元したものである。 岩村藩は、美濃国岩村城(岐阜県恵那郡岩村町)を居城として、松平能登守が三万石の領地を持っていた。 駿河国に十五ヶ村、五千石分の飛領地があり横内村に陣屋(地方役所)を置いて治政を行っていた。 (説明板より引用) |
■家々の屋号 横内地区の東海道に面した家々の中には、往時は商いを営んでいたのでしょうか。軒下や玄関先、羽目に当時していた商いの屋号を記した木札が掛けられています。 |
■横内あげんだい・燈籠流し 「あげんだい」とは長さ5メートルくらいの孟宗竹の上部を割って逆三角形の籠を作ります。その中に燃えやすい松葉や麦わら竹の筒などをいれたものです。これを「あげんだい」といいます。人々は籠に松明を投げ入れ早く火がつくのを競います。一言でいえばあげんだいは、松明による玉入れのようなものです。 横内地区のあげんだいと燈籠流しは昔からの行事ですが、40年くらい前から行われなくなりました。 地元の横内歴史研究会の熱心な活動により、平成11年の横内400年祭で久々に行われ復活しました。その後、あげんだいと燈籠流しは、横内地区の精霊送りの行事として毎年8月16日の精霊送りの日に横内朝比奈川で行われています。 |
交差点を過ぎたところに田中藩嶺傍示杭 「従是西田中嶺」 があったことをしめす石碑が立っています |
史跡 一里塚跡 江戸日本橋から47里目の一里塚です。 歩いていて見落としてしまいそうな一里塚跡で、「史跡 一里塚跡」と記し た白色の案内木柱が民家の壁面に寄り添うように立っていました。 側面には「東海道百二十六里塚 江戸から四十七番目」と記されてあり ます。 |
![]() | 須賀神社のクス このクスは樹齢およそ500年で、県 下でも有数の大きさを誇り、御神木と して大切にされてきた大木です。旧東 海道の脇にあって古くから往来する 人々を見守ってきました。近くには「東 海道 中膝栗毛」などにも名所として 登場する鐙ヶ淵など、東海道ゆかりの 史跡があります。 樹高 23.7m 根廻 15.2m 目通 10.9m 枝張 東西 21.2m 南北 27.9m (説明板より一部引用) |
■史跡 鐙ヶ渕と観音堂 一、此処の広場は元葉梨川の渕でその形バ馬具の鐙に似ていたので古来より鐙ヶ渕と呼称されていた。。 一、崖工の観音堂ば通称山之堂と言われ入々に親しまれて来た。御本尊は、蛇柳如意輪観世音菩薩と言いお腹篭りという珍しい尊像で胎内仏は,平安時代中期の名僧で恵心僧都の御作と伝えられる。昔から子宝、安産等に霊験あり婦人の参詣者が絶えなかったという。 一、昔、渕のかたわらに柳の大木が有りその木に触れたものは浄土往生の志を覚え渕に身を投げたという。人々はこれを「人取り柳」と呼び恐れて近づかなかった。後に聖僧により切り取られ一体の観音像として鐙堂の御本尊となる。(鐙堂略縁起より) 一、伝説に依れば徳川家康は戦勝祈願の為 愛用の鐙を渕に沈めたという。(鐙堂略縁起より) 一、弥次喜多道中で有名な十辺舎一九は東海道中膝栗毛三編の中で鐙ヶ渕の歌を詠んでいる。 ここもとは鞍のあぶみが渕なれば 踏んまたがりて通られもせず (説明板より引用) |
■道標 右川ニ沿ヒ八幡橋ニ通ス 是ヨリ橋ヲ渡リ 左山ニ沿ヒ下藪田ニ至ル |
■藤枝成田山の歴史と左車 山は今から約七百五十年前の建長年間照光院と云う名前の寺院で有ったが、六代嵯峨上皇の子宗尊親王(十才)が六代将軍となる為、京都から鎌倉へ東海道を上る途中、ここ藤枝の宿で親王の乗っておられた御所車の左輪が折れてしまった。そこで御所車を修理する間照光院で休息された。光栄ある休息にあづかった寺では、これを記念して、それ以来寺名を左車山休息寺と改めた。又この修復に当り破損した左輪や車軸を寺の裏の聖地を選んで埋めた後その跡に宮一宇を建立した。現在保存し左車神社と名付けた。又、この地名をも「左車」と名付けて現在に至っている。 その当時境内には本堂、不動堂、大師堂、庫裡等の伽藍があったが、その後今川氏から武田氏の戦国時代となり、文禄−慶長にわたって二度の戦火に遭ったため焼失したのち廃寺同様となっていたところ、千葉県大本山、成田山の御分身を勧請して皆様方の燃ゆるが如き且つ不断の畝.誠によりまして静岡県唯一つの成田山として明治初年落成し末曽有の`況裡にぺ佛大法会を終え今日に至り欠河鎮護の道場として偉観を添え得ましたことは法幸限りなく御同慶至極のとをます 合掌 (説明板より引用) |
![]() | ■成田山のボケ除の像 高齢化社会の到来で老人ボケ は大きな社会問題となて来まし た。このたび当山ではボケ封し の願いと幸福に老いてほしいと 云う願いとを込めたボケ除けの ブロンズ像を建立いたしました。 昔から冬至の日には.健康の ため.カボチャを食べる習慣が あります。カボチャを食べるとボ ケない。中風にならない又は弱く なった頭を「カボチャ頭」という、 いい伝えがあります。ボケ封じ. 中風封じとして愛食されてさたカ ボチャを大切にひさにかかえて いるおUいさんと、満面に笑みを たたえているおばあさんが横に 寄り添っている老夫婦像は、まさ に円満そのものであります。 (説明板より一部引用) |
木戸跡を示す案内標識 田中城の跡地に建つ藤枝市立西益津小学校の校門脇には、三方向の木戸跡を示す案内標識があります。 |
■田中城 田中城は、駿府城の西の守りとして重要だったので関ケ原の合戦以前からの、徳川氏の家臣であった小大名を藩主として、配しました。 江戸時代の前半は、ごく短期間で城主が交代しましたが、幕府が安定すると本多氏に定着し、代々世襲されました。 城主は酒井氏以来、明治元年まで12氏21代を数え、入城・転封に際して加封されたり、幕府の要職についた人も多くあり、このために田中城は、出世城と呼ばれました。 (説明板より引用) |
■「月の砂漠」歌碑 歌碑の円形部分には月の砂漠の歌詞が刻まれています。扇形部分には下記の碑文が刻まれています。 加藤正男氏は明治三十年に田中に生まれ同四十年に本校を卒える 大正昭和にかけて叙情的な詩や絵を発表 なかでも月の砂漠は広く愛唱されている |
史跡・田中城下屋敷 田中城の歴史は、今から500年ほど前、この地の士豪・一色氏がその居館を拡大したのに始まるといわれています。現在、市立西益津小学校の建つ位置がかつての本丸で、城は四重の堀に囲まれた、直径約60 0mの円形をしていました。江戸時代にはここに田中藩がおかれて、志太郡・益津郡の村々を治めていました。 この下屋敷は、六間川を挟んで田中城の南東端に接した位實にあります。ここは、一色氏やその後裔の古沢氏の居館跡たともいわれていますが、江戸時代後期には城主の別荘(下屋敷)がおかれ、築山、泉水、茶 室なとを設けて四季の草花を楽しみました。 この下屋敷跡を整備するにあたり、田中城ゆかつの建築物をここに移築、復元しました。田中城にあった建物は、明治4年の廃藩置県によって民間に払い下げられ、住宅や納屋などとして利用されましたが、永し い年月の間に朽ち果て、現存するものはごくわずかです。移築された建物は、いすれも百数十年の星霜に耐えてきた重要な文化財です。これらの文化財を保護し後世に伝えるため、夜間は入場できませんのでご協力下さい。 (説明板より引用) |
■昼食場所へ 横断歩道の手前でバスに乗り寿司屋「寿し宏」に向かった。昼食後バスで戻りウォークを再開する。 |
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