■一日目 府八幡宮…宮之一色一里塚跡(江戸から61里目)…長森立場…池田渡船場…行興寺(謡曲「熊野」で知られる熊野御前建立)…<天竜川>…金原明善生家・明善記念館(明治・大正時代の実業家)…安間一里塚跡(江戸から63里目〉…馬込一里塚跡(江戸から64里目)…浜松宿番所跡…=(泊) ■二日目 浜松=大手門跡…高札場跡…五社神社(徳川秀忠の産上神)…杉浦本陣跡…若林一里塚跡(江戸から65里団)…二つ御堂(藤原秀衡ゆかりのお堂)…篠原一里塚跡(江戸から66里闇)…(昼食)…東海道松並木(大小340木の松並木)…見付石垣跡(江戸中期に構築)…舞坂一里塚跡(江戸から67胆目〉…岐佐神社…舞坂宿木陣跡…舞坂脇本陣…北雁木=浜松城(徳川家康の出世城) |
■五社神社 五社神社は浜松城内にありました。1579(天正7)年、徳川二代将軍秀忠が誕生したことにより産土神としました。翌年、現在地に遷座しました。960(昭和35)年、諏訪神社と合祀されました。 |
■中 : 川口本陣跡 大名・公家・幕府高官など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松の本陣6ヶ所の内もっとも新しくできた川口家の本陣跡で、建坪は 163坪(約540平方メートル)あったといいます。 ■右 : 梅屋本陣跡 大名・公家・幕府高官など貴人の宿泊のために宿場に置かれた旅館を本陣といいます。ここは、浜松六本陣の内梅屋家の本陣跡で、建坪は 180坪(約600平方メートル)でした。 国学者加茂真渕(本名庄助)は梅屋家の婿養子でした。 |
■若林一里塚跡 若林一里塚は、江戸日本橋より65里目の一里塚です。 ここは江戸から65里になります。往時には土手のある松並木が続いていました。俗に「八丁畷」といわれていました。榎が植えられた一里塚は街道を行き交う商人、旅人の道標でした。 現在は「一里塚跡」の石柱と史跡標識が建っているだけです。 |
高札跡 この付近に柱を立てて高札を掲げた高札所がありました。村の人々に法令やおふれを周知させるために書かれた木札を高札といいます。 明治三年(1870)ごろ廃止されました。 |
■篠原一里塚跡 篠原一里塚は、江戸日本橋より66里目の一里塚です。 以下、説明板より引用。 一里塚跡 徳川幕府は、慶長九年(1604)東海・中山・北陸の三街道に方五間(五間四方)の一里塚を築くことを諸大名に命じました。 江戸日本橋を基点とし、一里(三十六町約四キロ)毎の街道の両側に一里塚が築かれました。 東海道宿村大概帳に、「壱 土塚 木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記されています。(左側とは南 右側とは北を指す。) 当時の旅人は、一日十里(約四十キロ)を歩くのが普通であったといわれていました。 |
高札跡 この付近に柱を立てて高札を掲げた高札所がありました。村の人々に法令やおふれを周知させるために書かれた木札を高札といいます。 明治三年(1870)ごろ廃止されました。 |
■旧東海道松並木(長池〜新町) 江戸幕府が1604(慶長9)年に街道の両側に松や杉を植えさせたことに始まります。1712(正徳2)年には、街道の両側の堤に1,420本の松が植えられてありました。現在では約 700mにわたり、大小 340本の松並木が続いています。 |
■見付石垣 江戸時代中期ごろに構築されました。「見付」は見張所にあたります。人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたっていました。 |
■舞坂一里塚跡 江戸日本橋より67里目の一里塚です。 江戸から67里目(約267キロ)の位置にあります。1874(明治7)年の調べによりますと、塚の広さは2ヶ所ともに5歩(約16.5平方メートル)でした。街道北側の塚の松は高さ2問半(約451センチ)、目通り2尺(約61センチ)ありました。街道南側の一里塚は塚の一部が残っていましたので、1975(昭和50)年、町の文化財に指定されています。 |
■岐佐神社 創建の年代ほ不明ですが、延曹式神名帳に記載されている古社です。創建後、たびたび移転したようで、現在地に祀られるようになったのは永正年問(1504〜1521)といわれます。今の社殿は1912(明治45)年の建立です。毎年旧暦の9月14-15日に行われる例祭の大太鼓祭りは、遠州の奇祭として知られています。 社殿の西側に赤茶けた大きな石があります。この赤石は「古事記」の中にもでています。 |
■舞坂宿本陣跡 舞坂宿には伝左衛門本陣と徳右衛門本陣の2軒がありました。伝左衛門本陣本陣の建物は宿内ではひときわ大きく、総坪数は130坪9分(約433平方メートル)でした。また本陣は他の旅籠屋と異なり、門・玄関・式台・上段の問などの付設が許可されていました。伝左衛門本陣と徳右衛門本陣は、ともに建物は現存しません。伝左衛門本陣跡には「舞坂宿本陣跡」と彫られた石柱が立てられています。 |
■舞坂宿脇本陣 江戸時代、東海道舞坂宿は江戸から30番目め宿場にあたり、東西交通を結ぶ今切渡しの渡船場であった。今日、当時をしのぶ町並みは失われてしまったが、1838(天保9)年建築の旧脇本陣「茗荷屋」の上段の間があった書院棟か残されていた。旧東海道では唯一とされるこの貴重な脇本陣遺構を後世に伝えようと1997(平成9)年、この建物を復元した。 (案内パンフレットより引用) |
■北雁木 (きたがんげ) 浜名湖今切り渡しの舞坂宿側の渡船場跡です。1657(明暦3)年から1661年(寛文元)にかけて造られました。雁下とは階段状になっている船着場のことをいいます。北雁下は大名や役人用でした。木(中)雁下は武家用でした。渡荷場(南雁下)は庶民用や荷物の積み下ろしに利用されていました。現在は北雁下のみが残っています。 |
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