第28回二川宿−御油宿-2
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2010-02-20
第28回 二川宿 〜 御油宿

【二川宿・吉田宿・御油宿】

豊川を越えて山裾の古宿へ 二川から御油宿まで
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第二日目


行程  1日目:約7q  2日目:約13q  計約20q
第1日目
 岩屋観音(スタート)…飯村一里塚(江戸から73里目)…曲尺手門祉(かつての吉田城内への入口のひとつ)…藩校時習館趾(1752年創建という古い歴史)=吉田城祉(1505年築城。東三河の要衝)…吉田宿本陣跡=豊橋・ジェントリーホテル(泊)
第2日目
 豊橋=吉田宿…湊町神明社…聖眼寺…下地一里塚跡(江戸から74里目)…爪郷遺跡(弥生時代の遺跡)…兎足(うたり)神社…伊奈一里塚跡(江戸から75里目)…御油松並木資料館…御油宿本陣跡…東林寺…御油松並木(弥次・喜多が狐に化かされた話で有名)





早起きをしてホテル周辺を散策・・・


■吉田宿脇本陣跡
 吉田宿の脇本陣は一軒でした。枡屋鈴木庄七郎が営み、建物の建坪は113坪でした。
  






■ 吉田宿本陣跡
 ここは江戸時代、清須屋東隣に江戸屋の二軒の本障がありました。本障とは各宿駅に置かれ、街道を往来する大名・幕府役人・宮家・公卿など身分の高かった人達が宿泊したところです。享和二年(一八〇二年)の書上によると東海道吉田宿には、本障二軒・脇本陣一軒・旅篭六十五軒があり、ここ札木町あたりは宿の中心部として最もにぎわったところでした。
(説明板より引用)
  

老舗の鰻料理店の前です







「札木」信号




「札木」信号近くで
路面電車の「札木」電停






朝日が輝きはじめました







宿泊のホテル





2日目のスタートです







■吉田宿西惣門跡
 吉田宿京都側の出入り口です。ミニチュアで復元されています。






■神明社
  安久美神戸神明社といいます。創建は千年くらい前といわれます。
  湊町公園となっている敷地の中にあります。境内には築島弁財天が祀られています。また芭蕉句碑もあります。
  毎年2月10日と11日に行われる鬼祭りは、国の重要無形民俗文化財にも指定されている奇祭だそうです。
  



◆旅寝塚句碑
 芭蕉翁貞享四年(一六八
七年)芳野紀行の途次越人
を伴い保美(渥美町)に杜国
を訪れんと十一月十日吉田
に泊る句はその夜の感概を
  「寒けれど二人旅ねぞた
のもしき」  と詠じたもの  
 昭和七年豊橋趣味の会一
同この句碑を建つ
         (説明板より引用)


















船会所があったところといわれています











豊川に架かる新しい「とよはし」




橋の袂の一角に旧豊橋の親柱、欄干が保存されています




新しい「とよはし」の全景


  






■聖眼寺
 平安時代に慈覚大師が八名郡八名井(現新城市)に建てました。その後に現在地に移転しました。
 境内の芭蕉句碑「ごを焼て 手拭あぶる 寒さ哉」があります。句にある「ご」は松の枯れ葉のことです。松葉塚は聖眼寺に3つあり、その1はこの古碑で、松尾芭蕉没後の50年記念に建てられたものです。その2は再建松葉塚です。1769(明和6)年、近江義仲寺にある芭蕉の墓の土の一部を譲り受けて再建したものです。その3は古碑の所在を示す標石で、1754(宝暦4)年の建立です。






本堂



◆芭蕉翁の句碑
   こを焼て 手拭  あぶる 寒さ哉

 昭和二十年戦災にあって句碑がいたんだため、拓本をとることを禁じます。           (説明板より引用)






■下地一里塚跡
 江戸日本橋から74里目の一里塚です。
 豊川の豊橋(往時の吉田大橋)を渡ると東海道は左に折れます。
 右手の聖眼寺(松葉塚)を過ぎると、往時は左右ともに榎が植えられた一里塚がありました。この下地一里塚は江戸日本橋からから数えて74里目に当たります。





















■爪郷遺跡
 弥生時代に属する土器、石器、骨角器、木製の農具等が多数出土しています。この爪郷遺跡(うりごういせき)西大和の唐古遺跡、東静岡の登呂遺跡とともに日本の三大低湿地遺跡として知られています。
 復元家屋は10年位前に不審火により焼失しましたが関係者の努力で再復元されました。




















緩い上り坂の手前に「小坂井町」の道路標識が建っています












■「子だが橋」碑
  子断が橋ともいわれ、明治時代には「小田橋」と書いてあった。
  およそ一千年前菟足(うたり)神社には、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする風習があったと伝えられている。
  ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
  それからこの橋を、子だが橋と呼ぶようになったということである。
  現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われている。
(説明板より引用)













■菟足(うたり)神社
 7世紀後半頃に創建されたといわれ、菟上足尼命を祭神とする延喜式内の旧社です。約千年前、菟足神社には、大祭の初日、街道を最初に通る若い女性を人身御供に供える習わしがあったと伝えられています。今では、12羽の雀をお供えにしています。
 菟足神社は旧正月に豊作を願った御田祭、4月の風祭など、祭礼が盛んな神社として知られています。また、弁慶の書と伝えられている「大般若経」585巻は国の重要文化財に指定されています。




  

        右 : 社殿






■伊奈村立場茶屋 加藤家跡  (俗称 茶屋本陣跡)
1 茶屋の地名
  東海道吉田宿と御油宿の中間にあたり、立場茶屋が設けられたの   で、茶屋の地名がてきた。
2 加藤家と良香散
  茶屋のうち格式の高い加藤家(初代は大林平右衛門)ては、「良香散」  という腹薬が売られ、この薬は茶屋の地名よりも有名であつた。交通  の変遷によって今はこの古井戸一つ残すのみとなつた。
3 明治天皇御旧跡
  東京遷都の時、明治天皇は、この加藤家で碩休憩になられた。その  時天皇が使用された箸が、牧野英一氏宅に保存されている。
4 俳人烏巣
  烏巣は、加藤家の生まれで、謙斎といい芭蕉と親交があり、京都で   医者をつとめていた
5 芭蕉句碑(芭蕉が烏巣方ヘ一泊した時の作)
     「かくさぬぞ宿は菜汁に唐が羅し」
6 烏巣句碑
     「ももの花さかひしまらぬかきね哉」        (説明板より引用)




  
左 : 烏巣句碑  右 : 芭蕉句碑






■民家を通り抜けて本陣跡を訪れる













  

草むらに埋もれる「本陣」碑






■伊奈一里塚跡
 江戸日本橋から75里目の伊奈一里塚です。
 伊奈の立場跡(芭蕉の句碑があり)からしばらく進んだところに、日本橋より75里目の伊奈一里塚があります。
 今は往時のおもかげは何もありませんが、山本太鼓店脇に「伊奈一里塚跡」碑が建てられています。
  








伊奈一里塚跡から暫く歩くと「豊川市」の道路標識がありました





昔の家並みが見られました






 → 

新道路建設で途切れ、迂回して行くことに・・・






 → 

国道1号線に合流




広がる田園風景








日本橋から300qを超えました








再び旧道を歩きます・・・




美味しそうな柿






◆菜飯田楽の「きく宗」
 きょうの昼食の場所となりました。
 今の東海道では本格的な菜飯田楽を食べられるような店はほとんど残っていません。
 老舗「きく宗」では豆腐に「八丁味噌」を塗って炭火であぶり辛子を効かせた田楽と大根や蕪の葉を細かく切り刻んで炊き込んだ菜飯が看板です。単品でもセットでも食べられます。












■国府観音   資料確認中・・・
  









■高膳寺   資料確認中・・・






本堂




十王堂




三十三観音像








■大社神社
  神社の創建は明らかではありません。戦国時代にすでに社があったといわれます。祭神は大国主命で、現在の拝殿は、1849(嘉永2)年に建立されたものです。この神社の夏祭りは国府夏まつりと呼ばれ、各町内からの山車と歌舞伎行列が旧東海道を大社神社まで練り歩きます。境内では手筒花火、大煙火が奉納されます。










社殿




「国府廃寺礎石」碑






■御油一里塚跡
 江戸日本橋から76里目の一里塚です。 
 大社神社のすこし先にある蒲郡信用金庫の道路に面した敷地内に、「御油一里塚跡」の石碑が建っています。
  






 ■御油の追分
  ここは東海道と姫街道の分岐点です。常夜灯と「左ほうらいし道」「砥鹿神社道」「秋葉山三尺坊大権現道」の文字が刻まれた道標が建っています。姫街道は、ここから東海道と分かれて八幡、諏訪を通り、当古で豊川を渡ります。本坂峠を越え遠州に入り、三ケ日宿、気賀宿を通って見付宿で東海道と合流する全長61.5qの脇街道です。




  

ここは姫街道の起点にもなっています














御油橋を渡って御油宿の中心に・・・





■御油宿
  東海道五十三次の35番目の宿場として栄えました。宿場間の距離は東海道で最も短く、御油と赤坂は2宿で一つの宿としての役割を果たしていました。狭い道路と僅かに残る格子をはめた家並みから、往時の御油の宿場の雰囲気が漂います。




   
左 ■高札場跡  高札とは、江戸時代に代官所が町民や旅人に諸規則      を知らせために設置と多掲示板です。御油宿では、ここの場所      に高札が立てられていた。
右 ■問屋場跡  江戸時代の宿場町で公用の荷物や人の継ぎ送りに必      要な人足や馬を備え、大名や瀑布の役人などに人馬を提供       し、輸送にあたらせた所です。      (いずれも説明板より引用)





■本陣跡
 御油本陣があった仲町は、本陣と多くの旅籠や商家が建ち並んでいました。往時は最も賑わったところでした。本陣は2軒、共に仲町にあり、林五郎太夫と鈴木半左衛門が勤めていました。1851(嘉永4)年の家系図には、林五郎太夫家に代わって谷十郎が本陣役を勤めていることが記されています。今は本陣跡には何も残っていませんが、この鈴木半左衛門家跡には「本陣跡」の標柱が建っています。






■東林寺
文化財仏像名・略
 東林寺は、室町時代の中頃の永享年間(一四二九〜一四四一)に龍月日蔵和尚によって創建され、当初「洞元庵」と呼はれていました。
 本尊の阿弥陀如来は、鎌倉時代初期の中央仏師の作と推定されています。言い伝えによれば、この如来像は奥州にドる牛若丸(義経)と契りを結んだ三河矢作の浄瑠璃姫の念持仏で、龍月日蔵和尚が当寺に移し、本尊として祀ったとされています。
 また、本寺にある毘沙門天立像、青面金剛立像及び阿弥三尊画像・来迎阿弥三尊画像も市の交化財として指定されています。
 この寺には、徳川家康が二度も立ち寄っています。
 また、芝増上寺の管長 祐天大僧正がたびたび訪れていることからも、当時の隆盛ぶりをうカカい知ることがてきます。    (説明板より引用)






本堂






■御油の松並木
 御油宿と赤坂宿の間の約600メートルにわたって300本近い大木が続く松並木です。この松並木は徳川家康の命を受けた街道奉行の大久保長安によって植樹されたものです。大久保長安は甲州道中八王子宿の代官を勤め、八王子千人同心と関わりが深く、銀山奉行も勤めた幕臣です。
 1944(昭和19)年、国の天然記念物に指定されました。「東海道膝栗毛」の中で弥次さん喜多さんがこの御油の松並木で狐に化かされ難渋する話は有名です。
   










今回は松並木を出たところが終着地となりました



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