第24回 藤枝宿−日坂宿-3
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かつての難所 大井川を越える

第24回 藤枝宿 〜 日坂宿

【藤枝宿・島田宿・金谷宿・日坂宿】



第二日目・前編


歩程 1日目 約11q  2日目 約12q

第1日目の行程
 千貫堤…上青島一里塚跡(江戸から51里目)…=蓬莱橋(昼食・休憩)=…島田宿一里塚跡(江戸から52里目)…刀匠島田顕彰碑…大井神社(島田宿の鎮守)…大善寺…大井川川越遺跡(川越人足が集合した番屋)…大井川

第2日目の行程
 大井川…金谷宿・佐塚本陣跡…柏屋本陣跡…金谷一里塚跡(江戸から53里目)…長光寺…石畳茶屋…金谷坂(風情ある石畳道)…諏訪原城跡(武田信玄築城.国指定史跡)…菊川坂(石畳道)…=お茶の郷(昼食・休憩)=…久延寺(家康手植えの五葉松・夜泣き石)…小夜鹿一里塚(江戸から54里目)…小夜の中山峠…日坂宿本陣跡…事任八幡宮(坂上田村麻呂ゆかりの神社。樹齢千年の大杉)

■第2日目・前編の行程
  大井川…金谷宿・佐塚本陣跡…柏屋本陣跡…金谷一里塚跡(江戸から53里目)…長光寺…石畳茶屋…金谷坂(風情ある石畳道)…諏訪原城跡(武田信玄築城.国指定史跡)…菊川坂(石畳道)…=お茶の郷(昼食・休憩)









2日目は雨の中、大井川堤防中をスタートしました






東海道標識「島田市・金谷宿」 と 八軒屋橋






■日本左衛門 首塚
 日本左衛門は本名を浜島庄兵衛といい生まれは定かではないが、遠州浜松在ではないかといわれています。
 歌舞伎の青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)(白波五人男)日本駄右衛門のモデルにもなりました。
 義賊といわれ、盗みはするが非道はしないというのが身上で、金持ちの蔵を破り生活困窮者に盗んだ金をばらまいたという説もあります。
 詮議の手が廻り、もはや逃れられないことを知った日本左衛門は京都で自首しました。そして、江戸に送られて処刑され、根城としていた見付宿(現在の磐田市)でさらし首になりました。

  辞 世 「押取の人の思い羽かさなりて
                身に青翔のかかる悲しさ」

と詠んでおります。
金谷宿の「おまん」という愛人がひそかに見付宿から首を持ち帰り、この宅円庵に葬ったものです。                      (説明板より引用)

















  






■佐塚本陣跡
  1843(天保14)年編纂の『宿村大概帳』によると、金谷宿には本陣が3軒ありました。佐塚家が経営する佐塚本陣は、その中で2番目に大きい263坪の敷地を有していました。
  1634(寛永11)年、徳川三代将軍家光が上洛の時、帰路に使用したという大高欄付の連台が保存されています。
  現在は屋敷の跡地は分割されたため、往時の姿を偲ばせるものはありません。今の佐塚家は跡地の一角で書店を営んでいます。当主は15代目ということです。
  






■柏屋本陣跡 
  河村氏が営んでいた本陣です。金谷宿で3軒あった本陣のなかで264坪という最も大きいな敷地を有していました。
  現在は跡地に農協の建物が建ち、案内板が柏屋本陣跡であることを伝えています。
  






■金谷一里塚跡

  江戸日本橋から53里目の一里塚です。
  ここには東海道標識と手書きの説明立て札が立っているだけです。             (以下、手書きの立て札より引用)

 一里塚跡
                        金谷町新町
延享三年(一七四八)の 「東海道巡覧紀」 によれば
 「金谷一里塚榎木」 とある
  里程  江戸へ 五十三里
       島田へ 一里
       日坂へ 一里廿四町
                        金谷宿
  






■長光寺
  日蓮宗の寺院です。正しくは日蓮宗本遠山長光寺といいます。
江戸時代初期の正保元(1644)年、慈善院日悦上人が身延山26世智見院日逞上人を開山に勧請して開いたといいます。







松尾芭蕉の句碑
  道のべの 木槿は馬に 喰はれけり












雨が土砂降りになりました






■金谷坂
  金谷坂と菊川坂は、急な傾斜と「青ねば」と呼ばれる粘土質の土の影響で、ひとたび雨が降るとぬかるという歩き難い道でした。
  文政年間(1818〜1830)、この土道に石畳を敷く道普請が行われました。金谷坂の工事には近隣の村から人足が集められ作業にあたりました。
  明治以降になりますと人の往来が少なくなり石畳は荒廃してしまいました。金谷坂ではごく一部を残して利用しやすいように舗装路になりました。その後時代がかわり、1991(平成3)年、約430mにわたり石畳を復元しました。このおかげで、現代の旅人は往時の面影を偲ぶことができるようになりました。








金谷坂石畳
左:「東海道金谷坂」  右:「石畳上り口」





豪雨のため小休止となりました





縦の筋は豪雨の凄まじさの現れです
























金谷坂を上りきっても激しい雨が続いていました













 
■諏訪原城跡
  この城は、扇城・牧野城・金谷城などともいわれます。
「諏訪原城」の名は、城内の一角に武田氏の守護神である諏訪明神を祭っていたところがら名付けられたといわれます。残されている遺構は、1573(天正元)年、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が、徳川家康の東遠州の拠点である掛川城の押さえとするため大改修を施した時のものといわれます。
  翌年、勝頼は諏訪原城を拠点に長篠城を囲み三河進出を狙ったが、長篠の戦いで織田・徳川連合軍に惨敗しました。1575(天正3)年、徳川方の大軍が押し寄せて諏訪原城を包囲、兵糧攻めなどにより2ヶ月に及ぶ攻防戦は徳川方の勝利に終わりました。そして1582(天正10)年、天目山において武田氏が滅亡したため、諏訪原城の必要性はなくなり廃城となりました。
  現在、城跡には、諏訪神社や城跡碑が立ち、曲輪・空濠・土塁・井戸・馬出しなどの遺構が残されています。








この諏訪原城は武田信玄の築城です






■菊川坂石畳
 この菊川坂石畳は、平成十二年の発掘調査により江戸時代後期のものと確認されました。
 江戸時代は、様々な仕事が助郷という制度によってなされましたが、この石畳も近隣十二か村に割り当てられた助郷役の人たちによって敷設されたものです。この長さは、三百八十間(約六百九十メートル)あったともいわれています。
 しかし現在では、昭和三十年代から四十年代にかけての工事により一部破損されたところもありますが、このように長さ百六十一メートル、最大幅四・三メートルを残しております。
 かつては、江戸と京都を結ぶ主要な街道としてこの石畳も多くの旅人たちで賑わったと言われ、往時をしのぶ文化遺産として大切に後生に伝えていかなければなりません。                    (説明板より引用)


菊川坂





雨は小康状態と成りましたが、濃いい霧が漂いはじめました










山並みは隠れてしまいました





菊川坂が終わり、「間の宿菊川」へ・・・











■宗行卿詩碑 日野俊基歌碑
源頼朝の死後、鎌倉幕府の力が弱まり公家と幕府の対立は表面化し、承久三年(一二二一)後鳥羽上皇は幕府追討の院宣を出し軍事行動を起こした。京都方はあえなく敗れ計画に加わった中御門言藤原宗行は捕らえられ、鎌倉へ送られる途中の七月十日菊川の宿に泊まり死期を覚って宿の柱に次の詩を書き残した。

 「昔は南陽県の菊水下流を汲みて齢を延ふ
  今は東海道の菊川西岸に宿りて命を失う」

承久の変から約百年後の、正中の変で日野俊基は捕えられ鎌倉への護送の途次菊川の宿で、宗行の往事を追懐して一首の歌を詠んだ。

 「いにしへも かゝるためしを 菊川の
  おなじ流れに 身をや しづめん」

間の宿菊川は史跡とロマンの里である。           (説明板より引用)



石碑 二基  (左:日野俊基の歌碑  右:宗行卿の詩碑)







ここで昼食・休憩(お茶の郷で)・・・

  




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